憲法を覗いてみましょう

「ファンダメンタル憲法」
   佐藤幸治・中村睦男・野中俊彦
   1994年 有斐閣


概説書ないし体系書で憲法を一通り学んだ人が、憲法上の重要な論題についいて 憲法の根底にあるものに立ち返りつつ掘り下げて多角的に考察してもらうよすが となれば、、、という感じで作られた本。

========================================================================= ========================================================================= 77-79
 7 家族生活における平等

 民法において、婚姻年齢や再婚禁止期間について、男女を別異に扱い、また、夫 婦同姓を義務づけることは、憲法に違反しないであろうか。

 一 はじめに
 日本国憲法は、一四条で法の下の平等を保障するとともに「性別」を差別禁止事 由の一つとして掲げ、さらに、二四条で家族生活における「両性の本質的平等」を 規定している。したがって、家族関係における男女平等は、規定上は、憲法一四条 および二四条によって二重に保障されているのである。
 憲法二四条の家族生活における両性の本質的平等の原則に基づいて、民法の家族 法分野の規定は、一九四七年に次のように大幅に改正された。(1)妻の無能力の 廃止(民法旧一四条〜一八条の削除)、(2)旧法では入夫か婿養子を迎える場合 を除き妻は夫の氏を称した(民法旧七八八条)のに対して、夫婦はどちらかの氏を 自由に定めること(民法七五〇条)、(3)旧法では夫の住所に妻が同居する義務 を負った(民法旧七八九条)のに対して、夫婦で同居の場所を定めること(民法七 五二条)、(4)夫婦の法定財産制は、旧法での夫の管理(民法旧七九八条以下) から別産制に改められたこと(民法七六二条)、(5)離婚について、旧法では妻 の姦通は直ちに離婚原因になったのに、夫の姦通は姦通罪に処せられたような場合 にのみ離婚原因となった(民法旧八一三条二号、三号)のに対して、夫婦とも不貞 行為が離婚原因となったこと(民法七七〇条一項一号)、(6)親権について、旧 法での父の単独親権(民法旧八七七条)が父母共同親権(民法八一八条)に改めら れるとともに、母の親権行使に要した親族会の同意(民法旧八八六条)が廃止され たこと、(7)相続権について、旧法では家督相続において男子の優位が認められ ていた(民法旧九七〇条一項二号、九八二条二号、三号)のが、家督相続の廃止に 伴い、男女の相続権の差がなくなったことである。
 このような明治憲法下に存在していた男女差別の廃止について、有力な憲法学説 は、「日本国憲法の施行とともに、その趣旨にしたがって、それまであった各種の 男女の差別待遇は、すべて否定され」、「かくして、今日では、少なくとも法律上 は、完全な男女同権が実現されているといえる」と評し、「ただ、男と女とのあい だには、生理的条件のちがいがあるから、そうしたちがいに応じて、女子について 男子とちがった取扱いがみとめられることは当然であり、それは、もとより、法の 下の平等に反するわけではない」とし、その例として、女子の再婚禁止期間(民法 七三三条)、労働基準法上の女子の労働時間や労働時刻の制限、生理休暇や育児時 間についての特別扱いをあげていたのである(宮沢・憲法U〔新版〕二八〇頁)。 つまり、男女による一定の異なった取扱いは、肉体的・生理的条件の差異によるも のとして正当化されているのである。
 男女の肉体的構造の差異を根拠にして男女の異なった取扱いを正当化する考え方 に対しては、一九八〇年代になってから、女性に対する固定観念(ステレオタイプ) に基づく役割分担論や特性論であるという批判が提出されるようになるのである。 すなわち、「純粋に肉体構造の差を理由として分類することには一定の根拠があり、 ある状況においては合理的な分類と評価されることになる」が、「固定観念に基づ いて性別を分類基準として使用することにはまず合理性は無く、肉体構造の結果と しての特性を理由とする分類もきわめて疑わしい」というのである(横田耕一「女 性差別と憲法」ジュリ八一九号〔一九八四年〕六九頁)。このような新しい男女平 等観に立つと、従来合理的根拠を有すると解されていた家族生活における男女の異 なった取扱いの幾つかは再検討される必要がでてくるのである。

=========================================================================  二 婚姻適齢
 三 再婚禁止期間
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82-84
 四 夫婦同姓

 民法七五〇条は、「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称 する」と規定して、夫婦が同じ氏(姓)にしなければならないことを定めている。 この規定では、夫の姓ではなく、夫婦いずれかの姓を選択できるようになっている 点において、少なくとも形式上は男女平等になっているが、現実には、夫婦同姓の 強制により九八パーセント以上の妻が、夫の姓を称しており、実質的には甚だしい 男女不平等をもたらしていることが今日改めて問題とされているのである。
 憲法一四条もしくは二四条の男女平等との関係では、民法七五〇条が夫または妻 のいずれかの姓を選択できるという形式に着目して男女平等に違反しないと解する か、それとも民法七五○条の実際上の機能として夫の姓が98パーセント選択されて いるという実質に着目して男女平等に反すると解するかである。このことは、法の 下の平等が、形式的平等で足りるのか、それとも結果の平等をはかる実質的平等ま で要求するのかという問題とも関連しているのである。この点について、日本社会 の現実において、いずれかの姓を選択できるという一見中立的なルールが、女性に 不利に働いているということは、ルールじたいが差別的なもので、男女平等に違反 するのではないかという指摘が近時なされるに至っている(山田卓生「結婚による 改姓強制」法時六一巻五号〔一九八九年〕八六−八七頁、金城・後掲書一四六頁、 中川高男「民法(家族法)上の両性の平等」法律のひろば四三巻六号〔一九九〇 年〕一五頁、床谷文雄「夫婦の平等と別姓」法教一二五号〔一九九一年〕一五頁な ど)。これに対しては、法の下の平等は実質的平等(結果の平等)を含まないとい う反論も加えられている(内野正幸「夫婦別姓をめぐる憲法問題」法セミ四四一号 〔一九九一年〕二二頁)。
 夫婦同姓の憲法問題として男女平等違反のほかに、憲法一三条の人格権としての 氏名権違反の問題がある。氏名そのものが人権として保障されているか否かについ ては、最高裁NHK氏名日本語読み訴訟において、「氏名は、社会的にみれば、個人を 他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、 人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の 一内容を構成する」と判示したこと(最三小判昭和六三・二・一六民集四二巻二号 二七頁)に注目して、民法七五〇条によると、「夫にしても妻にしても、いずれか 一方がその意思に反して氏を失うのであり、これは人格権としての氏名権(憲一三 条)を侵害するもの」という見解が出されている(床谷・前掲論文一四−一五頁)。 氏名を憲法上の人格権として捉える考え方に対しては、「憲法論としてみた場合に は、そもそも、結婚前の姓を続ける権利を、憲法一三条の保障をうける幸福追求権 の一つとして構成しうるか疑問となる」のであり、「仮に憲法上の権利として構成 しえたとしても、結婚前の姓を続ける権利は、結婚、出産、子どもの養教育等の自 由が有しているところの緊密な家族関係を通じて人格そのものを形成していくとい う特質を有してはいないので、憲法上両者を同等のレベルで語りえない」という批 判が加えられている(米沢広一「家族の変容と憲法」ジュリ八八四号・臨時増刊 『憲法と憲法原理』〔一九八七年〕二〇二頁)。
 夫婦別姓を認めることに対する反対論は、@良き家族関係あるいは社会関係を破 壊すること、A戸籍や行政での取扱上の不便があること、B子の姓をどうするかと いうこと、C時期尚早であることの四点にまとめられる。このうち@の家族をどう 捉えるかが重要な点である。一方では、同居義務があり、相互扶助の義務を負って いる夫婦が家族を構成して、未成熟子を少なくとも社会的に独り立ちするまで育て 上げていくという民法が想定する家族像は、夫婦別姓の考え方とは調和しないので はないかという疑問が出されるのに対して、他方では、別な姓を名乗ったからとい って、家族の基盤が脆弱になるわけではなく、それぞれ独立した個人が相手を敬愛 し、互いに助け合って一つの共同体を維持していくのに、夫婦同姓は必須要件では ないという反論が加えられているのである。
 近年、夫婦別姓を求める運動が展開されてきており、実際に夫婦別姓を実行する ために、婚姻届を出さずに事実婚を選択したり、婚姻届を出しても通称として旧姓 を使用する夫婦が増えてきている。しかし、事実婚を選んだ場合に子どもが非摘出 子として差別を受けるという不利益があり、また、法律婚を選んだ場合に戸籍名の 使用を強要されるという不利益が生じうるのであり、新たな憲法問題を発生させて いる。

========================================================================= 五 嫡出子と非嫡出子
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*参考文献
加藤一郎「男女の同権」中川還暦「家族法体系(1)」(有斐閣・1959年)
314頁以下
米沢広一「子供・家族・憲法」(有斐閣・1992年)129頁以下、271頁以下
金城清子「法女性学」(日本評論社・1991年)85頁以下、235頁以下
                             (中村睦男)

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67-76
 6 平等原則と平等権
 憲法一四条の「法の下の平等」規定は、平等原則を保障するものといわれたり、 平等権を保障するものといわれたりするが、両者は相互にどのような関係にあるの だろうか。

 一 問題の所在
 憲法一四条は「法の下の平等」について定めている。「法の下の平等」にはさ まざまな解釈論上の論点があるが、今日では「不合理な差別」の判定基準や形式 的平等を超えた実質的平等の要求が含まれるか否かなどが基本的な論点である。 しかし本稿ではこれらについては扱わず、もう一つ別の論点を扱う。それは標題 に示したように平等原則か平等権かという問題であり、比較的新しい論点だとい える。

 (1)原則という考え方
 平等原則か平等権かという論点は、一昔前までは浮上していなかった。たとえば 広く読まれてきた宮沢・憲法U〔新版〕の一四条に関する論述部分を読むと、一 貫して「法の下の平等」という言葉が用いられており、「平等原則」とも「平等権」 とも表現されていない。そこにはまた意識的に両者を区別するような内容上の問題 点も格別示されてはいないのである。もっとも昔からこれら原則とか権利とかの言 葉が用いられなかったというわけではない。ただ用いられてはいたが(宮沢・前掲 書二〇二頁にも平等権という表現はある)、両者の呼び方以上になにか規範内容的 な違いがあるとは考えられてはいなかったということである。そこで通説的立場は つぎのように論じていた。「平等原則が国政の指針を定めた客観的な法原則である と同時に『平等に取り扱われる』あるいは『差別されない』という個人の主観的公 権(基本権としての平等権)を根拠づけるものである」(阿部照哉「法の下の平 等」芦部編・憲法U二二四頁。なお樋口ほか・注釈憲法(上)三二〇貢〔浦部法穂 執筆〕参照)。しかし平等権といっても、それは常に他者の待遇との比較において のみ問題になるという意味で実体的権利ではない。そこで「単なる『平等権』は、 ……それじたいとしては無内容であって、単一の権利概念として成り立ちうるもの ではないから、〔憲法一四条〕一項は、端的に平等原則を定めるものと解しておけば 足りる」(樋口ほか・前掲書同頁)という見解や「一四条一項が平等権を保障して いるといってもよいが、それは、……個別の自由や権利の保障とは異なる性格をも った権利として把握されなければならない。……通常の権利の概念で捉えるより も、一つの原則が規定されているとみることの方が、適切であろう」(戸松秀典 『平等原則と司法権』有斐閣・一九九〇年〕三〇四頁。同「平等原則」芦部編・ 基本問題二〇〇頁)という見解が出されることになる。これらの見解は、平等原 則と呼ぶか平等権と呼ぶかはどちらでもよいが、平等原則と呼ぶほうがすっきり するという程度のことを述べているのであり、平等原則というか平等権というか によって内容的な違いが生じるとは考えていない。そしてまた私もこのような考 え方に立っている。一般的にいえば、原則は客観的に国の行為を制限する規範と いう側面から観念され、権利は個人の側から主観的に観念されるものということ はできようが、人権の保障は常にそういう両面をもつのであるから、原則といお うと権利といおうと、どちらでもかまわないはずなのである。

(2)権利と原則の区別を強調する考え方
 ところがこれに対して、平等原則と平等権をはっきり区別して考えようとする立 場も存在する。それらにもいくつかのものがあるが、私の知る限り基本的につぎの 三つの立場がある。その第一は、平等原則だけでは司法的救済を得られない場合が あるから(ないしは、そういうおそれがあるから)、平等権ということを強調する 必要があるという考え方である。第二は、平等権は主観的権利としてその内容は平 等原則とは必ずしも一致せず、司法的救済の場面で、自ずとその範囲も限定される という考え方である。第三は、平等原則よりも平等権というほうが、より人権保障 に適合的であり、内実を豊かにできるという考え方である。このように同じ平等権 という主張でもそれぞれの内容は随分違っていておもしろいが、それぞれの考え方 が適切かどうかをつぎに検討してみたい。

 二 権利・原則区別論の検討

(1)平等原則と司法救済の可能性
 まず第一の考え方から検討していこう(学説としてきちんと出されていないが、 そういう考え方の存在について、野中「『法の下の平等』についての一考察」金 沢法学一・二合併号〔一九八五年〕七九頁以下参照)。たしかに一般的にいって 原則は権利に結び付かない場合がある。たとえば憲法八二条一項の裁判の公開原 則につき、有名な法廷メモ事件の最高裁判決(最大判平成元・三・八民集四三巻 二号八九頁)は、「その趣旨は、裁判を一般に公開して裁判が公正に行われるこ とを制度として保障し、ひいては裁判に対する国民の信頼を確保しようとするこ とにある」。「裁判の公開が制度として保障されていることに伴い、各人は、裁 判を傍聴することができることとなるが、右規定は、各人が裁判所に対して傍聴 することを権利として要求できることまでを認めたものでないことはもとより、 傍聴人に対して法廷においてメモを取ることを権利として保障しているものでな いことも、いうまでもない」と判断している。しかし他方憲法三二条の「裁判を 受ける権利」につき、通説的見解は「基本的には、伝統的な公開・対審の訴訟手 続による裁判を受ける権利を保障しているものと解される」といっているから (樋口ほか・前掲書七二〇頁〔浦部法穂執筆〕)、裁判の当事者という立場にあ る者には、裁判の公開は権利として認められているということになる。また憲法 三七条は刑事被告人に「公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利」を保障し ている。このように客観的な「原則」として規定されている場合はたんなる反射 的利益として、裁判では争えず、主観的「権利」と規定されている場合は裁判で 争えるという場合はたしかにある。しかし右の場合憲法八二条がもともと統治に 関する章に置かれていて、国民にとっての直接的な人権保障規定ではないからそ うなのだと一応考えればよい(傍聴人の側からは「知る権利」の一環としてこれ を権利として保障させようという考え方はできる)。もともと憲法の文言上は原 則という表現がなされているわけではないし、肝腎なのはそれぞれの規定の内容 である。そして権利と呼ぼうが、原則と呼ぼうが、呼び方の違いがなにか内容に 違いをもたらすとは考えにくい。人権保障規定のなかでも、たとえば憲法三一条 の適正手続について、それを「適正手続の原則」を定めたものといっても、ある いは「適正な手続を受ける権利」を定めたものだといっても、どちらでもかまわ ないわけで、適正手続違反により法的不利益を受けたものは、裁判で救済を求め ることができることに変わりはない(なお戸松・前掲書三五〇頁以下参照)。他 方、権利といってもなにをどの程度主張できるかは権利ごとにかなりまちまちで ある。たとえば、憲法一三条の「幸福追求権」につき、これは国政の基本原理で あって、具体的な権利ではないという学説も初期の頃は有力だったし、憲法一七 条の「国家賠償請求権」は、これは法律を待って初めて具体化するプログラム規 定だと解されていた(実際に法律が制定されたので議論の実益はなくなった)。 あるいは憲法二五条の生存権について通説は抽象的権利説をとっていることは周 知のとおりである。これは権利といっても裁判で直接なにかを請求できるような 性格のものではない。
 少し余分なことを述べたかもしれないが、要するに裁判で主張できるかどうか の点に関しては、つぎの論述が必要十分なことを伝えていると思われるのでその まま引用する。
 「権利規定でなければ裁判規範たりえないという命題は、憲法その他どの法律 分野においても成り立たないはずである。平等に取り扱われるべき法律上の権利 または法的保護に値する利益が不平等に侵害されたときは、当然〔一四条〕一項 違反となるのであって、それを裁判上主張しうることは、〔一四条〕一項を『平 等権』の規定といおうと『平等原則』を定めたものといおうと、変わるものでは ない」(樋口ほか・前掲書三二〇頁〔浦部法穂執筆〕)。

 (2) 優遇・標準処遇・劣遇と司法救済

 第二の考え方は、平等権として裁判で主張できる範囲は、主観的権利である分 だけ平等原則よりも狭くなると主張する(川添利幸「平等原則と平等権」公法研 究四五号〔一九八三年〕一九頁、内野正幸『憲法解釈の論理と体系』〔日本評論 社・一九九一年〕三六〇頁以下参照)。すなわち平等原則は国家の行為を制約し、 あらゆる不合理な差別的取扱いを禁止する趣旨であるが、仮にそのような行為が なされた場合でも標準的処遇よりも劣る処遇を受けるものだけが、平等権侵害を 主張できるというものである。そうすると、標準的処遇の者はより優遇されてい る者との関係では平等権侵害を主張できないということになる。しかし平等は本 来常に他者との関係で相対的に問題となる性質のものであるのに、なぜそれが標 準までの処遇を求める権利だとされるのか、その理由が分からない。標準的処遇 などはなく、優遇か劣遇かのいずれかしかない場合もあるし、少数の者が優遇さ れる場合もあるし、話ほそう簡単ではない。日本国憲法では「不合理な差別」の 禁止、すなわち不合理な標準以下の扱いだけを禁じているような文面になってい るが、ドイツ憲法の場合には「……を理由として、不利益を受け、または優遇さ れてはならない」(三条三項)というように、優遇も明文で禁止されているので ある。日本国憲法に明文はなくても、平等原則は特定のものを合理的理由なく優 遇することをもやはり禁止していると解することには誰も異論はないであろう。 ところがこの立場では、それは平等原則には反するが、誰の平等権も侵害してい ないから裁判では争えないということになる。しかしそのような帰結になるのは やはりおかしいと思う。一部の者の「不合理な優遇」は同時に他の者の「不合理 な差別」でもあるからである。私は、そこに相対的に「不合理な差別」がある限 り平等権の侵害は存在し、裁判での救済を求めうると解している。その場合、相 対的に不利な処遇を受けている者は、有利な扱いを受けている者との関係で常に 平等権侵害を主張できるが、逆の場合についてはまだ態度を留保しておきたい。 一般にその立場の者はより不利に扱われている者との関係で法的不利益を受けて いるとは認めにくく、優遇がいやなら利益を事実上放棄すれば足りるから、救済 の必要はないようにみえる。しかし事実上放棄できない場合もありそうであるし、 そのような場合に優遇されていることが精神的苦痛という不利益をもたらすこと もありうると思うから、もう少し検討を重ねたい。もう一つの問題は、裁判で主 張しうる範囲である。仮に選挙権の平等を侵害する議員定数不均衡が抗告訴訟で 争われるとした場合、たとえば最大較差が一対四のとき最過疎区から平均的な選 挙区までの選挙人は、標準処遇説ではそもそも平等権を侵害されておらず、裁判 で救済を求めることもできないということになる。これに対して私の考えでは少 なくとも最過疎区以外の選挙区の選挙人は平等権侵害を主張できるのであるが、 その際だれでも最大較差一対四の違憲性を主張できるのか、自己の選挙区との 較差までしか問題にできないのかという問題が生じるのである。この点もまだ検 討を要するが、私は前者の立場をとりうると考えている。
 平等権を標準的処遇までの権利ととらえる立場は、おそらく裁判によって現実 に救済されるのはどこまでかという問題と平等権の範囲の問題とをセットにして 考えているように思われる。一部の優遇者がいるときに、皆をその水準まで平等 に引き上げろという請求を認めるのは無理だし、他方優遇者を引き下げたところ で、訴えた者の処遇はなんら変わらないというのでは、そもそもそういう訴えを 認めることに問題があるという議論は確かに一理あろう。しかし私は、裁判所で 現実にどこまで救済しうるかという問題と平等権の範囲の問題とは別個の問題と して考えたほうがよいと考えている。平等権は差別の解消を求める権利であって、 その解消の結果どういう水準に落ち着かせるかは、不合理でない選択肢がいくつ かある以上、もともと立法府の裁量に属し、裁判所の第一次的権限ではないと思 うからである。
 さていろいろ述べてきたが、平等権ということを平等原則とはっきり分離して とらえようとすると、どうしても主観的な不利益に重きをおいたとらえ方になり、 かえって平等原則違反を裁判で争う道を狭くしてしまうように思えてならない。 司法的救済の限界の問題は平等権の内容と直結させず、当事者適格や主張の利益 の問題として考えたほうがよいと思う。
 なお従来の判例においては、このような論点は特に浮上していない。それは 「不合理な差別」で違憲とされた例がきわめて少ない上、違憲とされた事件の構 造がわりと単純だったからであろう。尊属殺重罰規定違憲判決(最大判昭和四八 ・四・四刑集二七巻三号二六五頁)の場合には、普通殺人罪に対する特例を定 めた規定であったから、それを無効とすることに格別問題はなかった。日産自動 車女子差別定年制事件判決(最三小判昭和五六・三・二四民集三五巻二号三〇〇 頁)も、男子従業員を中心とした就労体制のなかで女子従業員を不利に扱ったケ ースであったから、男子従業員の水準に合わせるという解決法で問題はなかった。 ただ衆議院議員定数違憲判決(最大判昭和五一・四・一四民集三〇巻三号二二三 頁)は、扱いようによってはむずかしい問題を含んでいたが、客観訴訟としての 選挙無効訴訟として取り上げられたこともあり、最高裁は右のような当事者適格 ・主張の範囲などの細かな点は詮索せず、客観的な最大較差を中心に選挙権の平 等を侵害しているかどうかを判断した。その後の同種事件においても同様である。

 (3)権利・原則と規範内容の相違

 第三の考え方の代表的なものとして、たとえば金城清子教授の議論がある(同 『法女性学』〔日本評論社・一九九一年〕八五頁以下)。そこではいろいろなこと が議論されているが、まず憲法一四条を端的に平等原則の規定とみれば足りると いう考え方に対して、「近代民主主義の理念の一つであり、自由権とともに基本 的人権の一つとして、人々の人権保障に大きな役割をはたしてきた平等権を、単 なる原則と読み替えてしまっていいのだろうか」という疑問を投げかける。つい で「権利は、人々の社会生活規範として経済活動・教育活動・文化活動、道徳な どの基準となり、人々の意識変革にも大きなインパクトを与えるものであろう。 そして憲法は、人々が自らの人間らしい生活を守るにあたって最大のよりどころ となるものである。……憲法が基本的人権として平等権を保障していることの意 義は、到底、その裁判規範性の有無にわい小化することはできない」とした後、 さらに男女平等権を「男性(女性)と同等の権利を事実上否定又は制限されない 権利」と定義し、これには自由権的側面と社会権的側面の二つがあり、前者は平 等原則でカヴァーできるが、後者は平等権としなければカヴァーできない。「国 が、何らの施策も行わないとき、積極的に施策の展開を求めることは、平等原則 ではできない」という。
 このような議論に対しては、つぎのような反論ができると思う。まずこの論者 は平等権と平等原則を意識的に分けて、平等権の方を強調しょうとしているので あるが、明らかに平等権の方が内実豊かだと考えているようである。ただそれが なぜそうなのかはよく説明されていないし、よく分からない。しかしすでに述べ たように、原則というか権利というかという言葉自体の違いから規範内容に違い がもたらされるものではない。つぎに裁判規範性にだけわい小化するのはおかし いというのは、権利は裁判所以外でも主張できるのだという意味ではそのとおり であろう。しかしことさら原則と区別して主観的権利性を強調することは標準処 遇説のような議論につながりやすいことに留意すべきである。のみならず裁判規 範性のない権利をはたして権利として理論構成できるものであろうかという疑問 が生じる。もちろん理念的権利とか政治的権利とか、裁判では救済ないし実現で きないものであっても、それを権利と呼ぶことは許される場合があろう。しかし 平等権が一方で裁判規範性を明らかに有している以上、そこからはずれる部分に ついてまで同じ平等権の名を使うことは、いたずらに混乱を招くだけであろうし、 解釈論の「けじめ」としてはどこまでが裁判規範として主張でき、どこからはで きないのかを明らかにしておくべきではなかろうか。そして最後に社会権的側面 にかかわる問題であるが、これは憲法一四条は実質的平等の要求を含むかという 問題として以前から議論されているところであり、その規範内容の解釈の問題で ある。平等権と平等原則のどちらの言葉を使うかによって、規範内容に違いが出 てくるわけではない。
 念のために付け加えておくが、私は裁判所以外での権利ないし原則の主張を決 して軽視するわけではない。たとえば衆議院の議員定数は選挙区間での較差ゼロ が理想の姿であるところ、裁判所では較差一対三程度までは立法裁量を尊重する という判断をしている。裁判所での救済はそのあたりまでであるにしても、選挙 人は二対一さらには一対一までを憲法上の権利ないし原則だといって国会や行政 に迫ることにも、あるいは世論に訴えることにも意義がある。ただその場合も、 権利というか原則というかは二次的な問題のように思われるというだけの話であ る。

●参考文献
 本文中に引用のもののほか、
阿部=野中・平等の権利
棟居快行「平等保障の実体内容」神戸法学年報五号(一九九〇年)一三三頁以下 (同・新構成一一三頁以下に所収)
                             (野中俊彦)


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